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人間に固有の機能不全
古い宗教やスピリチュアルな伝統をよくよく見れば、表面的な違いはどうあれ、その多くに共通する二つの中心的な洞察があることに気づくだろう。その洞察を表す言葉は異なるが、どれも基本的な真実の二つの面を指し示している。
一つはほとんどの人間の「ふつうの」精神状態には機能不全、もっと言えば狂気と呼べるような強力な要素が含まれていることだ。とくに手厳しいのはヒンズー教の中核となる教えの一つで、この機能不全を集団的な精神病と見なし、マーヤー、妄想のベールと呼ぶ。
インドの偉大な賢者の一人、ラマナ・マハリシは、「心とは妄想である」と言い切っている。 仏教では別の言葉を使う。ブッダによれば、ふつうの状態の人間の心はドゥッカ、苦を生み出す。苦、不満、惨めさである。
ブッダはそれが人間の置かれた状況の特徴だと見た。どこにいても、何をしていても、あなたはドゥッカにぶつかるし、ドゥッカは遅かれ早かれあらゆる状況に現れる、とブッダは言う。
キリスト教の教えでは、人類という集団のふつうの状態が「原罪」である。罪という言葉は大いに誤解され、間違って解釈されてきた。新約聖書が書かれた古代ギリシャ語を文字通りに訳せば、罪とは射手の矢が標的からそれるように的を外れることだ。
したがって、罪とは的外れな人間の生き方を意味する。先を見ないで不器用に生きて苦しみ、人をも苦しませるのが罪なのだ。
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人間の存在の核心にある集団的狂気が引き起こす出来事は、人類史の大きな部分を占めている。人類の歴史は、おおまかに言えば狂気の歴史なのである。
これが個人の病歴だとしたら、こんな診断がつくに違いない。慢性的偏執性妄想、「敵」と思い込んだ自らの無意識の投影である相手への病的殺人癖と暴力と残虐性。たまに短期間、正気を取り戻すだけの犯罪狂。
恐怖、貪欲さ、権力欲は、国家や民族、宗教、イデオロギー間の戦争と暴力の心理的動機となっているだけでなく、個人の人間関係の絶え間ない葛藤の原因でもある。これが他人だけでなく自分についての認識を歪める。
そのためにあらゆる状況を間違って解釈し、恐怖を解消しよう、「もっと多く」を求める自分の必要性を満たそうと、間違った行動に出る。
この「もっと多く」という欲求は、決して満たされることのない底なしの穴だ。 しかしこの恐怖と貪欲さと権力欲はここで言う機能不全そのものではなく、それぞれの人間の心のなかに深く根を下ろした集団的妄想という機能不全の結果である。
多くのスピリチュアルな教えは、恐怖と欲望を捨てなさいと言う。だがこの試みはたいていはうまくいかない。機能不全の根源に取り組んでいないからだ。恐怖と貪欲さと権力欲は究極の原因ではない。
もっと良い人間になろうと努力するのは確かに立派でほめられるべきことのようだが、当人の意識に変化が起こらない限り、結局は成功しない。
良い人間になろうとするのもまた同じ機能不全の一部で、微妙でわかりにくい形ながら、やはりエゴイスティックな高揚感、自意識や自己イメージの強化を求める欲であることに変わりはない。
良い人間、それは、なろうとしてなれるものではない。すでに自分のなかにある善を発見し、その善を引き出すことでしか、良い人間には、なれない。だがその善を引き出すためには、意識に根本的な変化が起こる必要がある。
もともとは高潔な理想から始まった共産主義の歴史は、人々がまず自分の意識状態という内なる現実を変化させようとせずに、ただ外部的現実を変えようと新しい地を創造しようと試みるときに何が起こるかを明白に示している。
共産主義者は、すべての人間がもっている機能不全の青写真を考慮せずに行動計画を立てた。その機能不全とはエゴである。
引用元:ニュー・アース 意識が変わる世界が変わる [ エックハルト・トール ] 『第一章 私たちはいますぐ進化しなければならない 人間に固有の機能不全』より
※書籍のご一読を推奨します。
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人間の心の機能不全をエゴとし、この章以降からずばり本題に入っていきます。
エゴを自分自身と錯覚することから、妄想、ドゥッカ、罪に捕らえられる。
前回の章では、『エゴと闘っても勝ち目はない。闇と闘うのと同じである。』と語られていましたが、
エゴとは、すべての人間がもっている機能不全のことなのですから、たしかにどうしようもないわけです。
ではどうすればいいんだ?という、エゴのささやきがでてきますが(笑)、
プログラムが進むにつれて、本当の自分である内なる神が明らかにしていくことでしょう。
ではでは、ALOHA!