あなたは、自分自身が誰かにとって、価値があることを証明するために、地球上にいるのではない。
P12からの引用です。
「価値」とは、グーグルでは次のように定義しています。
”どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。またその大切さ。ねうち。”
命、あるいは生命の存在は、ただあるだけで、大切であり、誰かの役に立ち、ねうちがある、と心の奥深いところでは誰もが感じているもの。
それなのに、わたしたちは常に誰かに認めてもらおうと、必死になる。
誰かや社会の承認をもらえないと自分はダメな人間なんだ、劣った人間なんだと卑下したり。
それでも何とか心のやりくりをして、一生けんめい正しくあろう、認められようと奮い立たせる。
みんなのスタンダードに合せなきゃ、いっぱしの人間じゃないのだから。って。
赤ちゃんは生存本能から泣くことで、養育者の庇護を求めます。そして成長過程においては、次に承認欲求が芽生えてくる。これも実は生存していくための機能。存在価値を認めてもらわなければ、生死にかかわるから。
で、大人のわたしたち。もう養育されなくとも生きて行けます。それなのに、まだ承認されようと必死になってしまっているのは、なぜ?
それは養育時代に記憶された生存するための防衛パターン。記憶の再生、くりかえされる反応。
このカラクリが腑に落ちた時に、ふうっと目が醒めます。
誰かや何かの承認を求めてしまっている、と気づいているのなら、もう大丈夫。客観的に自分がみえているから。
そんなときは、一歩進んでこんな質問をしてみるといいですよ。
わたしは、いまなにを埋めようとしているの?
わたしは、いまなにを怖がっているの?
わたしは、いまほんとうは、ほんとうは、どうしたいの?
一方で、一生懸命がんばってるのに報われない、心が苦しい、体が苦しい、、、という流れのなかにいるのなら、「誰かの(社会の)」為にやるべき、やらねば、が当然になってしまっていて、ほんとうの自分の声が聞こえなくなっている状態。
そんなときこそ、きょうのエイブラハムの教えを心の片隅に。
”あなたは、自分自身が誰かにとって、価値があることを証明するために、地球上にいるのではない。”
わたしたちは、ただ在るだけで、大切であり、誰かの役に立ち、ねうちがある。